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2011年8月27日 (土)

別の観点から見た掛軸 その4 <床の間③>

こんばんは玉木覚です

前回の記事で「床の間」には『真・行・草』と『数寄屋風書院』があることを紹介しました。そして、『真・行・草』と『数寄屋風書院』の「床の間」の特徴を見てから、『真・行・草』について触れてみました。今日は『数寄屋風書院』の床の間と『文人画(南画)*<文末へ>』の関係について少し触れてみようと思います

注:『数寄屋風書院』の床の間の写真でお見せできるものが手元にありませんでした。すみませんが、ネットで「床の間」、「数寄屋風書院」などと検索してみてください。

さて、『数寄屋風書院』の床の間の特徴は次のようなものです

<『数寄屋風書院』の床の間の特徴>

『数寄屋風書院』…『数寄屋風書院』は、様式もイメージも『草』と近い感じです(似ている感じ)。しかし、こちらは文人様ということで『草』とは異なったものとされているようです。

(『草』…『草』とは格式や形式を排除した自由で簡素な造形によるもの。柔らかで優しい線や面での表現。これを突き詰めたものは、侘び茶の小座敷(草庵風茶室)であり、「草の草」と呼ばれます。イメージとしては侘び、さび、雅趣、風情、遊び心といった感じです。)

前回の記事とかぶりますが、『真・行・草』と『数寄屋風書院』の床の間の出来た順番は、『真』が元々あって、次に『草』ができて、その次(もしくは「草」と同時期)に『行』が出来て、最後に『数寄屋風書院』が出来たとされています。つまり、これらの中で、『数寄屋風書院』の床の間は比較的新しいものになります。

さて、『数寄屋風書院』の床の間は『草(草庵風茶室)』と似ている点が多いのですが、『数寄屋風書院』は「草の草(草庵風茶室)」以外の草体なのでしょうか。このあたりは建築家の間でも意見が分かれるみたいですが、ある文献(『数寄屋ノート』)には、「数寄屋風書院は文人趣味である」といったことが示唆されています。このブログ記事では諸説ある中でもこの観点からお話をしたいと思います

江戸中期に煎茶道が流行しましたが、このときに文人趣味が煎茶道の流行に乗っかるようにして流行しました。このときに文人画(南画)も流行しました。当時、御用画師の狩野派は唐様(真)であったのですが、これとは別に新しい文化として文人画(南画)が流行したとされています(以下、この新しい文化を文人様とします)。武家の力を誇示する形で成立した唐様とは異なり、文人様は格式ばったものではなく反体制の雰囲気すらしていました。これは、文人画(南画)の支持層が中央からは縁が遠い下級武士や支配者階級以外の人たちだったことに起因しています。つまり、文人様は当時の社会的ストレスのはけ口や現実逃避として生まれた(受け入れられた)文化だと考えられています。

ところで、文人趣味的数寄は新たな様式の書院を創出しました。これは後に「数寄屋風書院」と呼ばれるようになりました。なぜなら、文人画を飾る床、すなわち文人様の思想が反映されて作られた座敷は、数寄屋建築の特徴を多く取り込んだものであったからです。

文人様は上述のようにして生まれた文化ですので、その特性上、意識の上では従来の格付けに縛られない独立したものであったと考えられます。例えば、材は従来の伝統的な針葉樹から離れて、広葉樹を多用するようになりました。

江戸時代には質素倹約を守りなさいという「お触れ」の影響で、町人たちは高級素材を使うことが出来なくなっていました。しかし、一部の富裕層の町人はこの質素倹約に反発してか、並材に普通ではない手間(過剰な装飾)をかけるといったことを行い、贅沢心を満足させていました。こうした志向が床の間に制約の少ない文人様をとりいれるきっかけとなったと考えられています(あるいは武家の抹茶の世界にあこがれて、町人は煎茶を代替手段として選んだだけかもしれませんが。)。また、一期一会の禅語にあるように抹茶道は武士道精神を反映するものですが、煎茶道を選んだ文人趣味には享楽的な面があります。ここに富裕層の町人が入り込んだ理由があったのではないかと思われます。

今回も文字が多くなってしまいましたが、『数寄屋風書院』の床の間と『文人画(南画)』の関係が少し見えたでしょうか。

次回からは今までのお話と掛軸の『真・行・草』&『文人仕立』を関連付けて見ていきたいと思います。

お楽しみに~

:文人画(南画)…文人画の文人とは、知識人のことです。ですので、文人画とは知識人が書いた絵画ということです。もう少し言葉を足しますと、文人画は文人(知識人)が余技的に描いた絵画のことでして、職業画家との区別をするために明末の「董其昌(とうきしょう)」が使用し始めた言葉といわれています。明末ということから、文人画は中国の文化であることが分かります。(「文人(知識人)」とは当時の中国人のことですね)

一方、日本の文人画を南画(なんが)といいます。これは中国の南宗画に由来します。詳しいことは、池大雅、与謝蕪村、富岡鉄斎などのキーワードで検索してみてください。いろいろ出てきますよ。

文人画も南画も画題は水墨画などの東洋画の一般的なものと共通する、山水・花鳥・草虫・花卉(読みは「かき」。草花のこと。特に「歳寒三友(「さいかんのさんゆう」松・竹・梅)」、「四君子(「しくんし」菊・竹・梅・蘭)」が好まれる。)などです。

<補足>

前回までの記事では【数奇屋】と書いていましたが、今日の記事から【数寄屋】と書かせていただきます。どちらでも良いのですが、ネットの検索では【数寄屋】の方が有意義な検索結果になりましたので、これを参考にしてみました。ちなみに、一説によれば『数寄』は「(茶道具の)数を寄せること」、また『数奇』は「物好きに通じ変わった趣味に凝ること」という謂れもあるようです。

表具師 玉木楽山堂

http://www.tamakirakuzando.com/

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