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2011年9月 7日 (水)

別の観点から見た掛軸 その11 <床の間の様式と掛軸の関係⑦>

こんばんは玉木覚です

更新が遅くてすみませんいろいろとバタバタしていまして、ブログ記事を書く時間を確保できていませんでした

今回は『数寄屋風書院』の床の間と掛軸の『文人仕立』の関係についてみてみましょう。とはいっても、別々に見ていくのではなく『文人様』というスタイルがあって、ここから『数寄屋風書院』の床の間と『文人仕立』の掛軸が生まれた、という視点でみてみます。

まずは、『数寄屋風書院』の床の間のイメージについてみてみますね。参考までに、『草』についても載せておきます。

●『数奇屋風書院』…『数奇屋風書院』は、様式もイメージも『草』と近い感じです(似ている感じ)。しかし、こちらは文人様ということで『草』とは異なったものとされているようです。

●草 ⇒ 『真・行・草』の中で最も格下の様式。このことから「格落ち」の意味を含む。イメージは、侘び、さび、雅趣、風情、遊び心、など。また、武家様に対する反対の概念(アンチテーゼ)や禅的な考え方を持つ。

禅的な考え方 ⇒ 『草』は武家様の反対の概念を持っているとはいえ、千利休が当時の武家社会に立脚していたことを考慮すると、やはり千利休が生んだ『草』は武家様の対極にありながらも武家様の一面を写すものと考えられます。

以前にこのブログで載せた記事から『文人様』の歴史的・文化的背景を抜き出してみました(斜体部分)。

江戸中期に煎茶道が流行しましたが、このときに文人趣味が煎茶道の流行に乗っかるようにして流行しました。このときに文人画(南画)も流行しました。当時、御用画師の狩野派は唐様(真)であったのですが、これとは別に新しい文化として文人画(南画)が流行したとされています(以下、この新しい文化を文人様とします)。武家の力を誇示する形で成立した唐様とは異なり、文人様は格式ばったものではなく反体制の雰囲気すらしていました。これは、文人画(南画)の支持層が中央からは縁が遠い下級武士や支配者階級以外の人たちだったことに起因しています。つまり、文人様は当時の社会的ストレスのはけ口や現実逃避として生まれた(受け入れられた)文化だと考えられています。

ところで、文人趣味的数寄は新たな様式の書院を創出しました。これは後に「数寄屋風書院」と呼ばれるようになりました。なぜなら、文人画を飾る床、すなわち文人様の思想が反映されて作られた座敷は、数寄屋建築の特徴を多く取り込んだものであったからです。

文人様は上述のようにして生まれた文化ですので、その特性上、意識の上では従来の格付けに縛られない独立したものであったと考えられます。例えば、材は従来の伝統的な針葉樹から離れて、広葉樹を多用するようになりました。

江戸時代には質素倹約を守りなさいという「お触れ」の影響で、町人たちは高級素材を使うことが出来なくなっていました。しかし、一部の富裕層の町人はこの質素倹約に反発してか、並材に普通ではない手間(過剰な装飾)をかけるといったことを行い、贅沢心を満足させていました。こうした志向が床の間に制約の少ない文人様をとりいれるきっかけとなったと考えられています(あるいは武家の抹茶の世界にあこがれて、町人は煎茶を代替手段として選んだだけかもしれませんが。)。また、一期一会の禅語にあるように抹茶道は武士道精神を反映するものですが、煎茶道を選んだ文人趣味には享楽的な面があります。ここに富裕層の町人が入り込んだ理由があったのではないかと思われます。

ここでは、2種類の『文人様(ぶんじんよう)』について述べています。つまり、「①中央からは縁が遠い下級武士や支配者階級以外の人たちによって作られた文人様」と「②江戸時代の町人によって作られた文人様」です。どちらも『文人様』ですが、前者(①)が元々の『文人様』であり、後者(②)は①を元にしてできたものです。②の『文人様』は当時の世相から察するに、富裕層の町人が幕府の方針である質素倹約を守りながら自分達の贅沢心を満たすためにできた【隠れ蓑的な】文化であったと考えられます。この二つの『文人様』に対応して、それぞれの数寄屋風書院の床の間が作られました。

①の元々の『文人様』の床の間は、数寄屋建築の特徴を取り入れたものとして発展していきました。そして、この文人趣味(『文人様』)は江戸後期には上層の武家社会にまで及ぶようになります。一方、②の【隠れ蓑的な】『文人様』の床の間は、「並材に過剰な装飾を施す」、「並材の中でも高級なものを使うなど(例えば、同じ杉でも秋田杉を使うなど)」といった特徴はありますが、【隠れ蓑的な】『文人様』は享楽的な性質をもった文化ですので、その様式が確立されることはありませんでした。これは、煎茶を好んだ『文人様』が書院茶(足利時代に始まる武家のお茶)を嗜む『武家様』とは異なり、厳格さや使命感を持ち合わせていない曖昧な文化であったため、様式化の試みが行われなかったのではないかと推察されます。

この二つの『文人様』は、幕末から明治初期にかけての西欧化政策に伴って一時的な衰退をみせます。その後、明治中期に江戸時代のものとは少し異なった形で再流行します。しかし、中国との政治的な確執(『文人様』は中国の文化と密接に関わっています)が生まれたことや、関東大震災が起こったことなどが原因で、またしても衰退してしまい現在に至っています。なお、「現在、私たちが住んでいる一般のお家の床の間は数寄屋風書院から発達した」という説があり、現代に新しく設置される床の間は、明治時代や大正時代の文人趣味の名残があるといわれています。

なお、数寄屋風書院の床の間には、この記事に出てきたものだけで三種類(上述の①、②、明治・大正時代のもの)ありますが、他にも桂離宮の公家好みのものがあります。ここで注意したいことがあります。それは、数寄屋風書院といった場合、上記のものを混同して指しているということです。そして、数寄屋風書院とは近年にできた言葉であり、特定の様式を指し示す言葉でなく、その概念はあいまいなものです。

ここからは掛軸のお話に行きたいのですが、話が長くなりましたので続きは明日に載せます

お楽しみに~

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表具師 玉木楽山堂

http://www.tamakirakuzando.com/

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